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外大陸開拓計画

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外大陸開拓計画(がいたいりくかいたくけいかく)とは、キエサルヒマ大陸外洋の新大陸の発見と開拓を目的とした、アーバンラマ資本の支援による開拓計画の総称。開拓民の大部分が街を失い行き場をなくしたキムラック難民で構成される。

背景[編集]

アイルマンカー結界の消滅後、キムラック市では大規模な蜂起が発生し、派遣された騎士軍の武力介入によって街は完全崩壊を喫した。総難民化した元キムラック市民たちはタフレムアーバンラマに分かれて移住を開始したが、アーバンラマは王都の侵攻に備えて厳戒態勢に入っており、多くの難民を受け入れる余裕は無かった。そこに、既にキエサルヒマの行く末を見限った一部の資本家たちは難民たちを生かすプランとして、彼らに外大陸の開拓事業計画を持ちかけた。当初は計画・契約が共に極めて杜撰なものであったことに加え、難民たちを一手に統率できる人材にも事欠いていたため、スポンサーが提示する不当な待遇を飲まされる者も多くいたという。

アーバンラマの開拓計画に目を付けたオーフェンは、新大陸を目指す船に無償で同船することを見返りに、スポンサーとキムラック難民の仲立ちを申し出た。オーフェンはキムラック奪還のために難民と共に騎士軍と戦っていたサルア・ソリュードと接触・交渉し、彼を開拓民の指導者に擁立した。

後の歴史(第四部時点)には、この計画が貴族共産会キエサルヒマ魔術士同盟の支援を受けたものと記されているが、それらはキエサルヒマ側の感情に配慮したものと思われる。

第一次計画(カーロッタ計画)[編集]

赤光帝48年頃、先遣隊となる第一陣がアーバンラマを出航した。開拓船には従来の輸送船が用いられた。予定では船は開拓民を新天地に送り届けた後、折り返してアーバンラマに帰還する予定だったが、開拓団は航海中に連絡を絶ち、一隻も帰還することはなかった。

この船団には、キムラック崩壊時に早々と街を脱出し行方不明となっていたキムラック教会教主ラモニロックと、その側近カーロッタ・マウセンが紛れ込んでいたという情報があった。後に彼らは新大陸の上陸に成功していたことが判明する。

第二次計画(サルア計画)[編集]

第一次計画の失敗を受け、オーフェンドロシー・マギー・ハウザーサルア・ソリュードらが主導となり、計画の一からの見直しと対策が為された。契約や待遇は開拓公社が取り交わす標準のラインまで了承が取られ、技術者や警備員の養成を含めた開拓民としての訓練も時間と予算が許す限り行われるなど配慮がなされていた。しかし、当時はキエサルヒマ内戦の真っ只中にあり、幾度となく計画断念に追い込まれそうになった。議会では大陸魔術士同盟側に参戦する議案も出されたが、終戦後の勢力図次第で開拓計画が有力な外交カードになることを見越し、計画は最後まで進められた。

開拓船はアーバンラマの技術と資本の粋を結集して建造された大型帆船「スクルド号」で、キース・ロイヤルが船長を務めた。第一次計画から約半年遅れで出航し、約3ヶ月の航海を経て新大陸に到達した。

開拓事業委員会[編集]

計画の合流[編集]

サルア計画は新大陸上陸後間もなく先遣隊のカーロッタ計画と遭遇したが、方針の隔たりから両者は対立を余儀なくされた。両派の度重なる武力衝突は開拓史黎明期を血に染め、最終的にサルア計画のオーフェンがカーロッタ計画の指導者であるカーロッタ・マウセンを屈服させたことで両計画は合流を果たした。

開拓初期の状況は凄惨を極め、当時山積みされた問題の中で一番の難題はカーロッタ一派の襲撃だった。抗争や事故で死んだ開拓民は、棺をいちいち作っている暇もなく疫病の心配もあったため火葬され、慰霊碑の横に遺骨を収めた壷を供えるという極めて簡素な葬儀が執り行われていた。

後に貴族共産会(貴族連盟の後身)が開拓公社を新大陸の開拓事業に参入させ、外大陸開拓計画以降初となるアーバンラマ資本家以外の出資による開拓団が「遅れてきた開拓者」として原大陸に上陸した。これ以降、本計画は「カーロッタ・サルア計画」と総称されるようになった。

関連項目[編集]

出典[編集]

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